Krypf’s Diary

暇なときに書く

ジョン・ロールズ『正義論』を読む 2 〜第61節 より単純な場合の善の定義〜

正義論

『正義論』は 1971 年に John Rawls が著した政治哲学書。正義・自由・平等を社会契約説の観点から560 ページにわたり論じている。

代表的著作『正義論』から抜粋して彼の正義哲学を読み解いてみたい。

https://giuseppecapograssi.files.wordpress.com/2014/08/rawls99.pdf

61. THE DEFINITION OF GOOD FOR SIMPLER CASES

第2回は61節を取り上げます。

3段階の善

John Rawls は善 (good) を人生の評価と合理性の観点から捉えています。この節では比較的単純なケースを分析し、善の定義に迫ります。彼は3つの段階を前提しています。

  1. A is a good X if and only if A has the properties which it is rational to want in an X, given what X’s are used for, or expected to do... ;
  2. A is a good X for K if and only if A has the properties which it is rational for K to want in an X, given K’s circumstances, abilities, and plan of life (his system of aims), and therefore in view of what he intends to do with an X... ;
  3. the same as 2 but adding a clause to the effect that K’s plan of life, or that part of it relevant in the present instance, is itself rational.
  1. [何か = A]が 良い [〇〇 = X] であることを、X の用途や予見性を仮定したときの A の合理性として定義する(特徴づける)。
  2. [人 K] にとって良いことを、K をとりまく状況、能力、人生計画(彼の目的の体系)に即して X を使って何を意図するか、その際の A の合理性として定義する。
  3. 3 番目は2番目と同様だが、人生計画それ自体の合理性を加味する、と述べられています。

3 番目に続けて "What rationality means in the case of plans has yet to be determined and will be discussed later on." とありますが、後で "by definition rationality is taking effective means to achieve one’s ends," という一節があり、合理性から合目的性と効率性が出てくる事がわかります(定義ではない)。

1 と違い 2 では対象となる人を介在させています。私が思い出したのは100分で名著のエチカ回で聞いた記憶のある「ある音楽が良いものかもしれないが聾者にとって良いものではない」という例です。

自由、機会、自己の価値観が人間的善の範疇に属することを保証したいというのが最初の段落の最後の主張です。脚注2にあるように、人間的善はアリストテレス『ニコマコス倫理学』における概念です。

段階に応じた各論

第1段階の「良いもの」の基準が何に依存しているかが語られます。

The essential point, however, is that these criteria depend upon the nature of the objects in question and upon our experience with them;

対象の性質と人間の経験、という抽象的な説明です。次に第2段階は価値判断に関するものだと語られます。

... we move to the second stage of the definition. Our judgments of value are tailored to the agent in question as this stage requires.

良いものとはなにか。例えば「良い時計」の本質は時刻の正確性かもしれません。もっと進んで物の分類や使用状況が考慮されるべきでしょう。

In all these cases special interests give rise to certain appropriate classifications and standards. These complications are ordinarily gathered from the circumstances and are explicitly mentioned when it seems necessary.

これらすべての場合において、特別な利害関係が一定の適切な分類と基準を生み出す。このような複雑な問題は、通常、状況から判断され、必要と思われる場合には明示的に言及される。

次に考慮すべきなのは判断している人間の視点です。

This perspective is characterized by identifying the persons whose concerns are relevant for making the judgment, and then by describing the interests which they take in the object.

この視点は、その判断に関係する人物を特定し、彼らがその対象に対してどのような関心を持っているかを説明することによって特徴づけられる。

次に提示される具体例はよい目や耳、毛並みがいい、根がいい、良い医者です。良い医者については、徳と合理性の観点を提示しています。

The skills and abilities are the doctor’s, the interest in the restoration of health by which they are assessed are the patients’.

したがって、良い医者とは、患者が医者に求める合理的な技能と能力を持っている人のことである。技術と能力は医師のものであり、それを評価する健康回復への関心は患者のものである。

ここに見られるように、善の定義は固定した視点を含んでおらず、視点は場合と文脈によって個々動くものであるということです。

These illustrations show that the point of view varies from case to case and the definition of goodness contains no general formula for determining it.

善と徳と道徳

続いて、善悪の判断が道徳的正しさに必ずしも依拠しないことが付け加えられます。

A further comment is that there is nothing necessarily right, or morally correct, about the point of view from which things are judged to be good or bad.

さらに付け加えるなら、物事の善し悪しを判断する視点には、必ずしも正しいものや道徳的に正しいものはないということである。

例えば、スパイや殺し屋は道徳的に褒められた仕事をしてはいないわけですが、雇い主や国家諜報機関の立場からは優れた・劣ったという区分はありえます。

私たちは、政府や謀略家の視点から、ある種の熟練度や才能を評価しているに過ぎない。スパイや暗殺者が善人であるかどうかは全く別の問題であり、それに答えるためには、その人が働く大義とその動機を判断しなければならない。

これについては後述します。


次の段落で、善と徳と道徳の議論を発展させます。最初のセンテンスを見ると筆者の語の連関が如実に現れています。

Now this moral neutrality of the definition of good is exactly what we should expect. The concept of rationality by itself is not an adequate basis for the concept of right; ...

さて、善の定義におけるこの道徳的中立性は、まさに我々が期待すべきものである。合理性の概念は、それ自体では権利の概念の適切な基礎とはならない。

  • 善 = 合理性 ⊃ 道徳的中立
  • 道徳 〜 権利の概念(〜 自由)の基礎

という構造です。そうはいっても、現実には道徳的にたっとばれる行為をすることが善さの証である、ということはあります。そこで要請されるのが権利、そして正義の概念です。

Moreover, to construct the conception of moral goodness, the principles of right and justice must be introduced.

さらに、道徳的善の概念を構築するためには、権利と正義の原則を導入しなければならない。

→ ここで道徳的原則が性質の望ましさを特徴づける具体例として、優れた裁判官が挙げられています。

さて、ここまで来れば、善 = 合理性 と 道徳を結びつけるのは、徳であることが分かります。

The characterizations ... rely upon a theory of the virtues and therefore presuppose the principles of right.

これらの特徴は、徳の理論に依拠しており、したがって、権利の原則を前提としている。

(In order for goodness as rational- ity to hold for the concept of moral worth, it must turn out that) the virtues are properties that it is rational for persons to want in one another when they adopt the requisite point of view.

(道徳的価値の概念に合理性としての善が成り立つためには、)徳とは、必要な観点を人が採用するときに互いに欲することが合理的であるような性質であることが分かるはずだ。

この徳の相互性・互恵性は 66 節で示されます。

非道徳的優越性への注釈

Rawls の挙げた中に スパイと殺し屋 の例が出てきました。情報を盗んだり人を殺したりしても、その成果が「良い仕事」であれば良きスパイ・良き殺し屋であるという論理です。

私は Rawls のいう合理性の観点で(悪として)優れていることを善と同列に語ることは注意を要すると思います。一方で、善を他者性の観点から定義すれば(私の立場では) スパイも殺し屋も敵にとっては悪であり味方にとっては善である という、何ら綻びを起こさないそのような整合的な結論に至ります。

その結論を掲げた上で2点分けて論じたいと思います。

文化的背景

まず筆者が何故このような例を出してきたかという文化的背景を想像しますが、アメリカという国柄でスパイといえば CIA です。CIA を始めとして、アメリカは対外的にも国内向けにも諜報活動が発達した国です。
一般にスパイは愛国心を必要とする職業で、前線でひとたび敵と相まみえれば生命の危険にさらされる過酷な職業です。(余談ですが謀略物のフィクションで真っ先に死ぬのは二重スパイであると相場が決まっています)

それから殺し屋についてですが、反社会的勢力を挙げるのは今適切ではないので、アメリカという文脈で適切な例として、軍隊ぐらいにしておきましょう。戦争の英雄は最も多く(あるいは効果的に)敵兵を殺したものです。
合理性という観点では議論のスマートさに疑問符がつくと思いますが、とはいえ、要するに敵を殲滅できるのは良い軍隊です。遠くから数多くの敵兵を撃ち抜けば良い狙撃兵、隊の存亡(味方を生き残らせ、敵を殺す)をかけ数多の兵を知略で動かせる勇敢な上官が、良い将校です。

そもそも必ずしも味方を生き残らせるだけでなく、敵殲滅のために【肉を切らせて骨を断つ】という犠牲を味方に強いる非情さも、将官や参謀には必要です。
お人好しでは優れた司令官は務まらないのです。(特攻のような戦術レベルではなく、兵の配置・進軍・囮など戦略レベルの話です。)

このような意味で、Rawls は熟練度とか大義とかと書いているものと思われます。

フィクションの例

フィクションでは ミッション・インポッシブルや 007 が有名ですが、日本では必殺仕事人などが分かりやすい例です。あれは主水の家庭の日常をコミカルに描くことで、裏稼業の殺しのシーンとの対比を鮮明にしているわけです。殺し屋が善人かどうかはその生業には関係ないのです。

スパイとは少し違うかもしれませんが、水戸黄門もスパイと言えばスパイです。素性を隠して全国を練り歩き悪代官を倒す勧善懲悪ストーリーです。スパイというより「公安」という言い方がふさわしい気もします。諜報活動をしているメンバーもいることはいますね。
仕事人と違い、こちらは道徳的にも「善い」という「結論ありき」のドラマです。

漫画ではゴルゴ13が有名です。あとは日本で「天下に轟く大悪党(大泥棒)」と言えば、ルパン3世にも出てくる石川五右衛門です。落語のまくらでもよく出てきます。同じ泥棒には ねずみ小僧という 善人の泥棒もいます。

善に話を戻すと、 目的を達していることや理に適っていること として良さを定義するなら「善いスパイ」や「善い泥棒」と言っても論理的には問題ないではないか、ということです。

余談ですが、落語では泥棒は悪人(悪事)と相場が決まっていて、よっぽどのことがないと報われません。

柳家小三治「転宅」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=A-AWirsL8no

「善い殺し屋」や「善い泥棒」が道徳的正しさの観点から "いない" と断じるためには、自由と徳の社会的規範、すなわち権利の総体としての法が要請されるのです。

まとめ

合理性としての善は人間の判断の介在に応じて3段階に分けて定義される。それには個別具体の視点が設定されるという意味で、善さの判断基準は固定されないことに加え、善さは道徳的正しさからは独立である。

合理性としての善を道徳と結びつけるものは、集団における相互互恵性としての徳であり、ゆえにそれは権利の原則に依拠している。